【信玄堤】古代、中世、そして現代の治水事業へ。

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【信玄堤】古代、中世、そして現代の治水事業へ。
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[月臣のひとこと]
実はここ数週間、ブログを放ったらかしてサイクリング三昧だった。

サイクリングとして距離が適度であり、馴染みも深い東京の小金井方面を中心に、鎌倉時代の武将「人見四郎の墓跡」のある浅間山公園をはじめ、近藤勇の生家や調布飛行場などをざっと見て回ったが、特に印象深いのは、江戸時代に開削された玉川上水や、村山貯水池(多摩湖)から引いた水を浄化する「境浄水場」などの、一連の水道施設とその歴史の深さであった。

玉川上水などの関連事項を、Wikipedia等を利用して漫然と調べてみるだけでも多くの発見があったが、特に日本の治水事業の原点とも言うべき『信玄堤』について、蒐集した記事群の一部をまとめておこうと思う。
これらの記事が、皆さんの「人間への探求」「政治・行政への興味」にとっての一助となれば幸いである。
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[目次]
1)【信玄堤(しんげんづつみ)】Yahoo!百科事典
2)【信玄堤(しんげんづつみ)】Wikipedia
3)「『信玄堤』と周辺の治水事業セミナー」
4)【都江堰 (とこうえん)---水利施設】
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1)【信玄堤(しんげんづつみ)】
[引用元]Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BF%A1%E7%8E%84%E5%A0%A4/

山梨県甲府盆地西部、釜無(かまなし)川東岸の堤防で、甲斐(かい)市にある。戦国時代、武田信玄が構築したものとして有名。この地は西岸に御勅使(みだい)川扇状地があり、御勅使川が釜無川に合流するところにあたっているが、御勅使川は荒れ川で水害をしばしばおこした。
信玄は1542年(天文11)から工事を始め約20年の歳月をかけて堤を完成した。特色は、御勅使川の流れを上流に固定して水勢を避け、1800メートルにわたる大堤防に樹木を植え、河岸には雁行(がんこう)とよばれる霞堤(かすみてい)(不連続に設けられた堤防)を設けたもので、この治水法は今日でも高く評価されている。甲府駅から信玄橋までバス約30分。
[執筆者:横田忠夫]

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2)【信玄堤(しんげんづつみ)】
[抜粋元]フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E7%8E%84%E5%A0%A4

信玄堤(しんげんつつみ)は、山梨県甲斐市(旧竜王町)にある堤防である。霞堤(かすみてい)。戦国時代に甲斐の守護、戦国大名である武田信玄(晴信)により築かれたとされる。史料上では「竜王川除場」と記されており、「信玄堤」の呼称は江戸時代後期から見られ、近代以降に一般化した。また、霞堤をはじめ「信玄堤」と呼ばれる堤防は武田氏以降のものを含め県内各地にも存在する(『甲斐国志』に拠る)。竜王堤。


釜無・御勅使川と信玄堤の築造

 内陸部の山間地域である甲斐国は、平野部である甲府盆地を有するが、盆地底部は笛吹川釜無川両河川の氾濫原であったため、古来から大雨により水害となる地域で、縄文時代に定住がはじまり中世には開発が進むものの安定した定住は困難であった。

 特に釜無川は支流の御勅使川(みだいがわ)とともに盆地西部において水害をもたらし、御勅使川治水、信玄堤の築造までは両河川とも盛んに流路を変更し、現在の甲府市域に至る東流路は甲府へも水害を及ぼした。

 甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府に居館を移し武田城下町の整備を行う。
 天文11年6月に信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。

 川除工事の開始時期は不明であるが、『明治以前日本土木史』では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとされているが、川除場で行われる夏御幸の開始時期が弘治年間であることから、着工時期をそこまでに遡るとする説もある。

 『国志』に拠れば、はじめ植林などが行われていたが、御勅使川と釜無川との合流地点である竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川流路の南への制御が試みられたという。
 工事は20年以上に渡り、永禄3年(1560年)8月2日の武田信玄印判状(『保坂家文書』)に拠れば、堤防管理のため棟別役を免除される代わり川除への集団移住(竜王河原宿)が促されており、一応の完成をみたと考えられている。
 堤防築造と御勅使川治水により洪水被害は緩和され、盆地西部や竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した生産力が確保されたと考えられている。
 文禄年間の甲府城代家臣浅野吉明の書状『今沢文書』に拠れば、竜王堤の普請は継続的に続けられており、江戸時代にかけて中巨摩郡昭和町中央市(旧田富町)方面へ部分的に延長された。

 1994年(平成6年)に行われた昭和町河西の発掘調査に拠れば、堤防は河原の砂礫層に杭列が施されたもので、内側へ突出した「石積出し」の痕跡も見られる。新旧の差が見られ、修復が繰り返されていたと考えられている。


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[Yahoo!検索]3)山梨県建設業協会 - 青年部会活動

「『信玄堤』と周辺の治水事業セミナー」
を開催
平成13年度青年部会講習会
-「信玄堤」並びに周辺の治水事業について-
[引用元]http://www.y-kenkyo.or.jp/seinen/backnumber/seinen_024.html

 青年部会では県内で発生した過去の水害を振り返り、治水に関する基本的な知識と技術的な情報について勉強するため、その第一歩として日本最古の大規模治水施設群である「信玄堤」及びその周辺の治水事業を研修した。
 当日は、講師に国土交通省甲府工事事務所長の和田一範所長を招聘し、「信玄堤」の背景と一連の治水施設の役割について講演を戴いた。

 初めに、和田所長が2000年9月に北京で開催された、国際大ダム会議に出席した折、四川省成都に現存する都江堰(トコウエン)〔2000年に世界遺産に登録〕を視察した時の説明があった。都江堰は信玄堤と同様な治水施設があり、今から2200年余りも前に造られながら、現在も成都の盆地を洪水から守っているとのことで、パワーポイントにより詳細な解説がされた。

 この後、信玄堤の治水施設群の役割など都江堰との比較の中で説明が行われ、その類似性は、甲斐の国と中国との間に何らかの接点があったためかと、想像をかきたてられるとの話があった。

 国土を守る社会資本整備は、100年、1000年の大計を持つことの必要性を強く認識した。


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4)【都江堰 (とこうえん)---水利施設】
[抜粋元]フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E6%B1%9F%E5%A0%B0_(%E6%B0%B4%E5%88%A9%E6%96%BD%E8%A8%AD)

都江堰(とこうえん)は、中華人民共和国-四川省-都江堰市西部の岷江(みんこう)にある古代の水利・灌漑施設である。

概説
 都江堰は、岷江が龍門山脈を抜けて成都平原(四川盆地の西部)に出るところに形成された扇状地の扇頂部に設けられており、岷江の水を左岸(東側)一帯へと分水している。都江堰は現在でも5,300平方kmに及ぶ範囲の農地の灌漑に活用されており、古代の優れた土木技術を今に残すものである。それまで水不足に苦しんでいた成都平原は水田や桑畑などが急速に広がり水運も便利になり、「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。

 都江堰は以後も改良や補修を加えられ、2300年後の現在もなお機能する古代水利施設である。現地には、李氷の偉業を讃え石像も建てられている。1982年には国務院の指定する全国重点文物保護単位の一つとなり、2000年には青城山とともにユネスコ世界遺産に登録された。