【W.チャーチル】(2)解説;1

イメージ 1

              ▲ウィンストンの生家「ブレナム宮」(1987年、世界遺産登録)

【W.チャーチル(2)解説;1

第二次世界大戦で英国を勝利に導き、戦後世界の枠組みを決めた政治家ウィンストン・チャーチルは、1874年、第7代モールブラ公爵の三男である父・ランドルフチャーチルの長男として生まれた。

モールブラ(Marl-borough)公爵家は、スペイン継承戦争(1701~14年)のブレンハイム(Blen-heim:英;ブレナム)の戦いで大きな戦功を挙げた初代モールブラ公ジョン・チャーチルのために新設された公爵家である。

アン女王(Anne Stuart;1665 - 1714)がその戦功を讃えて公爵ジョン・チャーチルに与えたブレナム宮殿で、ウィンストン・チャーチルは生まれた。

●ウィンストンがまだ幼い頃、伯父ジョージ(のちの第8代モールブラ公George)の情事(^^;)に加担した父・ランドルフが、皇太子との間で激しく対立し、社交界を追放された。
コトが拡大しないための配慮もあって、祖父・7代モールブラ公爵はアイルランドに赴任することになり、幼いウィンストンも同行。
この時代の記憶や後の文筆家としての研究もあって、ウィンストンはアイルランド独立問題に関わることとなる。

アイルランドにいる頃、父・ランドルフは政治に目覚め、ウィンストンは父を高く尊敬するようになる。

陸軍士官学校の卒業試験の直後、その父は不治の病で亡くなったが、深い悲しみにくれつつも翌月にはオルダーショット騎兵連隊に入隊。
軍に所属しつつも初代モールブラ公ジョン・チャーチルを始めとする大英帝国の歴史研究を重ね、政治家として亡き父の夢を追う生活が始まる。

キューバでは、第二次キューバ独立戦争をスペイン側の観戦武官として体験し、1895年、スペイン軍と共に未踏の密林を行軍するうち、ちょうど21歳の誕生日にゲリラの襲撃を受け、銃撃によって危うく落命するかという事態にまで遭遇した。

デイリー・スケッチ誌に掲載された彼の体験と考察によれば、ウィンストンは、ゲリラ側に同情を示しつつも、その軍事行動の拙さには批判的であり、のちに『大英帝国』を礼賛し、その「高貴なる支配」が、被支配者にとっても有益であるとの思想へとつながってゆくのである。

●1896年、ウィンストンの属する連隊はインド(英領インド帝国)のバンガロア(バンガロール)に派遣された。
この時期彼は、様々な書物に接して自学自習を重ね、その文体や思想に磨きをかけていった。

翌1897年、インド北部の露中印国境で紛争が起こると従軍記者として赴任し、のちに空席となった将校の補充として着任。

この「懲罰作戦」の戦闘と、大英帝国全体の戦略について述べられた新聞記事は『マラカン野戦軍として出版され、経済的な面、戦後統治の面などから、当時の大英帝国の「果てしなき拡大」について、批判的な意見を述べている。