エンリケ航海王子のまとめ

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●14世紀末の1394年、エンリケは10人兄弟の三男として生まれた。
兄弟のうち、4人は夭逝。
ポルトガルにおけるレコンキスタ(国土回復)運動を実現した父-ジョアン一世と、英国ランカスター家から招かれた母のもと、一家は一丸となってポルトガルを盛り立てていった。
レコンキスタ戦略によってイスラムを駆逐し、国土がイベリア半島南端に達すると、彼らは海外領土に目を向けるようになり、ジブラルタル近海や、アフリカ北西部-モロッコへの攻略を開始する。


●1414年、20歳になったエンリケは、父や、次兄ペドロとともにジブラルタル対岸のセウタを攻略する。
この攻略に成功したエンリケは、未だ開発されず、確実な航路も実現していないマデイラ・アゾレスの各諸島の探索に乗り出す。
●これらの諸島は、ただ単に発見されただけでなく、エンリケの生涯にわたって入念な開発が続けられ、港湾の整備・牧畜の導入・砂糖の生産など、将来の植民都市の手本となった。

●船乗りたちの古い迷信を打ち破り、ボハドル岬(現西サハラ)の南に進出したエンリケの派遣船団は、新開発のキャラヴェル船を駆使して1441年にはブランコ岬(現ヌアディブ)、44年にはヴェルデ岬(緑の岬:現ダカール)、50年代にはヴェルデ岬諸島(Ilhas do Cabo Verde)を発見していった。


■しかし、ポルトガル本国では1433年に父王ジョアン一世が没し、続いて即位した長兄ドゥアルテ1世も5年後に没し、レコンキスタ以前から続く旧貴族層を代表してブラガンサ公が発言力を強めつつあった。
ドゥアルテの息子-アフォンソ5世は、やがてブラガンサ公との結びつきを強め、1449年、ついに開明的な次兄ペドロ(コインブラ公)はブラガンサ公の挑発を受けて敗死。
以後はアフォンソ5世の主導によりアフリカ開発が進められる。


●ヴェルデ岬への到達により、イスラム王朝の影響力の大きいアフリカ北部を避け、アフリカ中部の隊商との直接の交流が可能となったことで、ポルトガルの国家戦略は「発見」から「貿易」へと進路を変えていった。

大麦・小麦・毛織物・絹織物、そしてアフリカにとっては希少価値だった馬を売り、代わってアフリカ内陸で産する金・宝石・岩塩、そして黒人奴隷を大量に仕入れ、、莫大な利益を上げた。


★家族一丸となってポルトガルを盛り立て、家族の死後には国内の権力争いに遭いながらも、常に海外に目を向け、開発と植民に尽力したエンリケは、その後のポルトガルの発展や、東西文物の交流、新たな科学の時代に向けての堅固な足がかりを築き上げた人物といえる。