【東京大空襲】(Wikipedia版)

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東京大空襲(Wikipedia版より、抜粋・修正。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

●3月10日の大空襲は、日本(当時は大日本帝国)の中小企業が軍需産業の生産拠点となっていると理由付けして、町工場も混ざる木造建築ばかりの下町の市街地、生活する市民そのものを焼き払うという低高度夜間焼夷弾攻撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。

●1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来。22時30分(日本時間)、ラジオ放送を中断して警戒警報が発令された。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除される。ここで軍民双方に大きな油断が生じた。その隙を突いて、3月9日から3月10日に日付が変わった直後(0時7分)に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも攻撃が開始された。

0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)でも爆撃が開始されている。火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速50m以上、竜巻並みの暴風が吹き荒れた。アメリカ軍が3月10日に東京大空襲を実施した理由は、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。但し、アメリカ側の資料では陸軍記念日を意識していたことは確認できていない。


東京大空襲B-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、多くの爆弾投下機から殆どの機銃と弾薬を降ろして通常の約2倍、6tの高性能焼夷弾を搭載していた。投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾エレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50cmの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。

この形は日本家屋の瓦屋根を打ち貫いて家の中に入り中身を散布するためで、縦にまっすぐ落ちるよう空中で体勢を制御するために吹流しのようなものを付けた。
そしてこれらをまとめて一つの束にし、「クラスター(束ねられた)焼夷弾」と呼んだ。投下後空中で散弾のように分散するものである。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにのぼった。午前2時37分、アメリカ軍機は退去し、空襲警報は解除される。

【被害の拡大】

●当夜は強い冬型の気圧配置により強い北西の季節風が吹いており、この強風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。


(1)日本側においては、もともと精度の悪い警戒用レーダーのアンテナを風が揺らしたため、ますます精度が悪化していた。これにより、確実な編隊の捕捉と敵の企図の把握が出来ず空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分)。
また、米側はウインドウ(=チャフ:電波妨害のためのアルミ箔)を大量に散布するなどした。


(2)米側は、「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。まず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)が超低空でエレクトロン焼夷弾を投弾して閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編隊も通常よりも低空で侵入して、発火点を包囲するかたちで集束焼夷弾E46を投弾した。着弾は高度爆撃よりはるかに精密になった。

後続編隊は早い段階で大火災が発生したため、非炎上地域に徐々に爆撃範囲を広げたが、火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下予定地域ではない荒川(当時は荒川放水路)周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで広げた。このため、火災範囲は更に拡がった。
折からの北西の季節風(空っ風)が火勢を煽り、延焼を拡げた。

これらの要因が重なり被害が拡大した。


焼夷弾

●この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的にした物であり、当時の平均的な焼夷弾の構造とは違う作りをしていた。
通常、航空爆弾は瞬発または0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、「爆発のエネルギー」を破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキル(やり過ぎ=非効率的)となる。そこで爆発力ではなく、「燃焼力」を主体とした焼夷弾が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。当時、都内では関東大震災を教訓に、燃えにくい素材で建物を補強するなどの対策がなされていたが、屋根瓦を貫き建物の中から燃やす仕組みとなっている新型焼夷弾E46の前では無力であった。


【避難中の被害拡大】

●火災から逃れるために、隅田川に架かる多くの橋や燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が常識を遥かに超える規模であるため、超巨大な火災旋風が至る所で発生し、あらゆる場所に炎が流れ込み、焼死する人や、窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。

水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ追い詰められた犠牲者が多いのに対し、逆に内陸部、日光街道東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した生存者が多い。


【日本軍による迎撃】

八丈島のレーダーは機影を捉えていたが、日本列島では猛烈な風のために本土防空隊は迎撃に出撃することができずにいた。その後爆撃隊がサイパンへの帰還中に迎撃可能となり爆撃隊を迎撃(追撃?)した。その際の戦果と陸軍の高射砲部隊の戦果を合わせて12機を撃墜、42機を撃破した。5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた。
(なお、この時墜落機の搭乗員の一人が逃亡途中で警防団員を射殺、逮捕された後に処刑されている。:「東京上野憲兵隊事件」)

【毒ガス散布計画】
●連合国は東京に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究も行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガス・ホスゲンなどが候補にあがっていた。

【関連項目】

国際法
ガラスのうさぎ
東京都江戸東京博物館
日本本土空襲
広島市への原子爆弾投下
長崎市への原子爆弾投下
ドレスデン爆撃
重慶爆撃
陸軍記念日

『うしろの正面だあれ』(海老名香葉子/著)
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%8D%E3%81%AE%E6%AD%A3%E9%9D%A2%E3%81%A0%E3%81%82%E3%82%8C