【鄭国渠】テイコクキョ[zhèng guó - qú]
【鄭国渠】(ていこくきょ)[zhèng guó - qú]
【鄭国(ていこく)】
[zhèng guó]
生没年不詳。中国、戦国時代の韓(かん)の水工(水利技術者)。秦王嬴政(えいせい:後の始皇帝)のとき、秦の東方進出を恐れた韓は、秦に大土木事業をおこさせて国力を疲弊させ、進出を食い止めようとした。そのため鄭国を秦に派遣し、彼は秦王に説いて、渭水(いすい)の支流水(けいすい)から東の洛水(らくすい)まで300余里(約120キロ)にわたる大灌漑(かんがい)用水路を建設して渭水北岸の荒れ地を開発する工事にとりかかった。韓の計略は工事途中で発覚したが、鄭国はこれが秦の利益になることを説き、死罪を免れて工事を続行した。工事の完成によって、4万余頃(けい)(約18万ヘクタール)の田が灌漑され、もとの荒れ地は高収穫の沃野(よくや)となり、秦はこの経済力によって富強化し、天下統一を成し遂げたといわれる。この灌漑用水路は彼の名にちなんで鄭国渠(きょ)と名づけられた。
【鄭国】
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鄭国(てい こく、生没年不明)は、中国戦国時代の韓の政治家・水利技師。
生涯
鄭国は戦国時代末期、秦の勢力が強大になった時代にに生まれた。
鄭国は土木作業に通じており、大規模な溝渠事業によって秦を疲弊させる目的で韓から派遣され、秦王嬴政(えいせい)に溝渠事業を説き実行させた。
工事が始まったあとに韓の目論みは発覚してしまったが、土地の荒い秦で農作物を取るためには溝渠事業が必須であり、鄭国は「いずれは秦の利になる」と説いたため処刑されず、溝渠事業を継続した。
溝渠事業は万里の長城に近い規模のものであったが十数年の時を経て成功し、鄭国渠とよばれたその溝渠は幹線水路延長150km、灌漑面積は67,000ヘクタールに及び、古代中国の3大水利施設のひとつと呼ばれ、現在は陜西省涇恵渠(ジンケイキョ)灌漑区に引き継がれている。
外部リンク
【鄭国渠】涇恵渠(ジンケイキョ)灌漑区
■中国語版■
【郑国 (战国人)】
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[出典]维基百科,自由的百科全书
郑国(?-?),战国末年韩国人,水利专家。
前246年为秦筑渠(韩水)三百里,号称“郑国渠”,被后世奉为“水神”,關中農民多所奉祀。
[來源請求]
郑国实际上是韩国派往秦国的间谍,通过劝说秦王政兴修水利,以耗秦國的國力,避免其東征伐韓。(出典↓1)
但鄭國這位偉大的水利工程師,仍然為秦國帶來了相當大的貢獻,司馬遷的說法是「從此關中為沃野,無凶年」。(出典↓2)
参考文献
- ^ 《史記·卷029·河渠書》:“而韩闻秦之好兴事,欲罢之,毋令东伐,乃使水工郑国间说秦,令凿泾水自中山西邸瓠口为渠,并北山东注洛三百馀里,欲以溉田。”
- ^ 《史記·卷029·河渠書》:「渠就,用注填閼之水,溉澤鹵之地四萬餘頃,收皆畝一鍾。於是關中為沃野,無凶年,秦以富強,卒並諸侯。」
■英語版■
【Zheng Guo】[zhèng guó]
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Zheng Guo or Cheng Kuo (鄭國) was a hydraulic engineer from the ancient Chinese kingdom of Han who designed the Zhengguo Canal in the kingdom of Qin during the Warring States Period[1].
The canal remains to this day, despite having been constructed in the third century BC.
The canal was originally designed as a method to trick the ruler of Qin so that Qin could not expand to the east.
However, when it was completed, it was a great agricultural boost to the region[2].