【伊達政宗と虎哉禅師】

伊達政宗と虎哉禅師】
 
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NHK大河ドラマ独眼竜政宗(1987)』で伊達政宗を演じた渡辺謙氏。
 
 
伊達政宗は天下人の豊臣秀吉の令に反して会津の葦名氏を攻め滅ぼし東北の大部分を手に入れ秀吉の再三の呼び出しを拒否し続けましたが、天下の情勢が秀吉へと傾き次々と東北の武将が参戦する中、やっと重い腰を上げて政宗も小田原攻めに参戦する決意しました。
秀吉が自分の命に従わない政宗に激怒していることを察知し、秀吉の怒りをかわす為には秀吉の派手なパフォーマンス好きを利用することが一番良いと考えて、政宗は秀吉に首を刎ねられる覚悟を見せるために、まっ白な陣羽織を羽織って秀吉と小田原で対面し秀吉を驚かせ小田原の遅参を許されることに成功しました。
 
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Dokuganryu Devine Guidance before Hitotoribashi Battle
虎哉禅師の登場する場面。
 
 
 
 
人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、天正13年11月17日(1586年1月6日)に佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の戦いである。

[背景]
天正12年(1584年)10月に父・伊達輝宗から家督を譲られた伊達政宗は、翌天正13年(1585年)に正室・愛姫の実家である田村氏からの独立を目論んだ小浜城主大内定綱を攻めた。政宗は定綱と姻戚関係にあった二本松城主畠山義継に対しても攻撃を加えようとしたが、義継は輝宗の斡旋を受けて降伏した。
10月8日、義継は宮森城にて会談中に輝宗を拉致し、政宗の追っ手によって輝宗もろとも討たれた。怒り狂った政宗は父の初七日が明けると13,000の兵を率いて二本松城を攻めたが、畠山氏は義継の遺児・国王丸を擁して籠城戦を展開した。
11月10日、畠山氏救援のため佐竹義重(義重室は政宗の叔母)が、輝宗の代には伊達氏と同盟関係にあった、あるいは伊達氏に従属していた蘆名氏・岩城氏・石川氏・白河氏などの南奥諸大名とともに挙兵して須賀川まで進出した。だが佐竹軍の進軍と接近との報を受けた政宗は、二本松城の包囲部隊を残して自軍の諸城を固めた上で、自らは主力7,000を率いて迎撃のため岩角城を経て本宮城に入った。
(続き⇒人取橋の戦い

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虎哉宗乙 (Wikipediaより)

虎哉 宗乙(こさい そういつ、享禄3年(1530年) - 慶長16年5月8日(1611年6月18日))は、美濃出身の臨済宗妙心寺派の僧。大虫宗岑(だいちゅうそうしん、下野国・雲岩寺の僧)と並んで「天下の二甘露門」と称された名僧。諡号は仏海慈雲禅師。
岐秀元伯・快川紹喜に師事した後、元亀3年(1572年)に、かつて伊達輝宗の叔父と親交があった縁から輝宗の招聘を受け、一度は固辞したものの、再度の要請に応え、嫡男・伊達政宗の学問の師となると共に、米沢・資福寺の住職となった。
政宗とは終生、師弟の関係にあったとされる。
 
[演じた俳優]