【母親たちの反核運動~3000万の署名、大国を揺るがす(2/2)】(NHKその時歴史が動いた;2009年放送)

【母親たちの反核運動
3000万の署名、大国を揺るがす
(2/2)
 
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原爆投下から9年、白血病などを発症する被爆者が後を絶たない。そんな1954年8月6日の原水爆広島大会には全国から2万人が集まる。
 
だが、その1ヶ月半後の9月23日、久保山愛吉氏がついに亡くなった。享年40。ビキニ環礁で被曝してから、わずか半年のことだった。
 
原水爆禁止の気運は高まり、ついに米国は譲歩。だが、それは「見舞金による問題回避」であって、米国として被災者に対する責任を明確にするものではなかった。
 
 
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依然として多数にわたる核実験を続ける米国に対し、市民はひたすら署名を集めることで対抗。
 
ついに1955年8月6日、国内署名総数3000万超、安井郁(かおる)氏(写真左上の人物)の尽力で、世界各国でなんと6億以上の署名が集まり、ついに一大国際世論を形成。
 
1963年8月、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦によって、部分的核実験禁止条約が署名された。⇒(Wikipedia)
 
 
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1976年、第五福竜丸展示館開館。
 
展示館の庭には、久保山愛吉氏が最期に遺した言葉が石碑として残されている。
 
原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい』
彼の残した言葉は、はたして守られたであろうか??
いや、その答えを、私たちはもう知ってしまっている…。