【検疫】Yahoo! 百科事典より転載。

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[再掲]【検疫】Yahoo!百科事典より転載。

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[メモ]【検疫】Yahoo!百科事典より転載。
10/6/19 17:33(3|1)
[ 日本大百科全書小学館)]

quarantine [英語]
quarantaine [フランス語]

 原語のquarantineは、伝染性の疾患にかかったおそれのある人間その他の動植物、またはそれを媒介するおそれのある物品などについて、その無害性が納得されるまで特定の地域においてその交通、移動を制限または禁止して隔離、停留するとともに、それらの無害化のために治療、消毒、廃棄などを含む防疫措置一般を施行する衛生上の危機管理をさす。

 日本では明治政府による「検疫所quarantine station」の創設とともに一般化したことばであるため、国内に常在しない伝染病(感染症)の国外からの侵入を防止する目的で、検疫法に基づいて海港、空港において旅客や貨物などに対して検疫所また検疫官が行う、診察、検査、隔離、廃棄などの法制度上の措置のことに限って使われることがほとんどである。
 ヒト以外の動物や植物を対象とするものとして、それぞれ家畜伝染病予防法、および植物防疫法に基づく動物検疫、植物検疫がある。
目次
1.歴史(本稿)
2.日本における検疫の概念と制度
3.検疫所の仕事
4.検疫の将来像
1. 歴史
 病気が伝染するものであるかもしれないというおそれから、病者との接触を忌避するために極端な方策がとられることがしばしばあったことは、『旧約聖書』「レビ記」の記述などによっても知られる。

 ヨーロッパでは、中世以来繰り返されたペストの大流行時における過酷なまでの検疫、隔離の例が、14世紀のフィレンツェについてG・ボッカチオにより、また比較的遅くは18世紀のロンドンについてD・デフォーにより記録されているのがよく知られている。
 これらの記録例でもわかるように、伝染病がいったん都市社会に侵入してしまうと、検疫、隔離の措置は対象も多く熾烈(しれつ)なものになりやすいにもかかわらず、効果はかえって疑わしいものであったから、人口密集地への侵入以前に、それを阻止できるような制度としての検疫が必要であると考えられるようになった。

 ヨーロッパにおけるペスト(黒死病)の最盛期であった14世紀には、それがしばしば東方よりもたらされることが多かったため、モンゴル族侵入の記憶とも結び付き、黒海沿岸や地中海東岸地方からの交易船に対する警戒意識が、イタリア、フランスの地中海沿岸港で高まった。
 1348年ベネチアは、交易船監視を行う公衆衛生保護官を置いた。さらに1423年には市外に恒常的な検疫、係留施設をつくった。ベネチアでは、初め30日、後に40日間、船を港外に係留して、公衆衛生保護官の監視下に置くこととし、この間に疫病の発生をみた場合には退去させた。この「40日quarantina」が「検疫quarantine」の語源である。

 この検疫のベネチア方式はジェノバ(1467)、マルセイユ(1476)などでも取り入れられ、やがてヨーロッパ全域で踏襲されていったが、これはヨーロッパ型近代国家の成立過程にあって、検疫が国家防衛の基礎的装置として制度化されていったことを意味している。
 完成された制度としての国境は、外側から順に検疫、入国管理、税関によって、それぞれ身体的・法律的・経済的に規定されるべきものとなっていったのである。
 このような版図、領域としての国家に対して、交通、流通、通商などは本質的に越境的であらざるをえないものであったので、経済の自律に基づく資本主義国家は国境線においてその構造的ジレンマをもっともよく表現することになった。

 すなわち検疫制度においては、一律的な40日間の入港延期処置に対して早くから異議申し立てが行われたが、16世紀には最終寄港地当局による衛生証明書の発行が慣例化され、この証明書を携行している船は、臨検時に伝染病が発見されない限りただちに港湾の使用が許可されるようになった。
 一方、17、18世紀を通じてアメリカ大陸との通商拡大に伴う黄熱病、イスラムのメッカ巡礼に伴うコレラなど、検疫の対象は次々に拡張されていった。このような新たな脅威に対する厳格な対応への要請と、一般的な措置の能率化の要求とは、ときに矛盾をはらみつつも、現在に至るまでその時々の制度改革の基底をなす二つの流れとなって続いている。

 前記のような検疫措置の方式や対象の多様化は、各港湾ごと、また各監督官ごとの恣意(しい)的な対応を許す温床ともなり、19世紀に入ると制度の構造的腐敗はもはや耐えがたいものとなっていた。
 1851年パリで初めての国際衛生会議が開かれた。当時、政治的対立が海洋貿易国家と農工業生産国家との間にあり、医学的対立が病原感染論と環境汚染論との間にあって根深いものであったが、この会議以降少なくとも西洋先進諸国間では、検疫制度の協調的運用への道が模索されることになった。

 しかし、条約や規則による実体的な国際協調の気運は、結局20世紀に入って、1920年国際連盟の成立を待たねばならなかった。1926年の国際衛生条約、1933年の国際航空衛生条約、1948年の世界保健機関(WHO)発足、1951年の国際衛生規則を経て、1969年の国際保健規則(IHR)のWHO総会での採択によって、ほぼ世界的な規模において加盟各国がこれに基づいて国内法を整備し検疫措置をとることができるような国際的な基準が整った。
 その後、現在に至るこの規則の改定は、より医学的・科学的根拠に基づくものであるように努力されているといえる。

 一方、対テロ対策を強化するというような視点が導入されるときは欧米主導型の価値観が優先する(アラブ世界からの主張)という批判もありえる。
 このように、合理的な全地球的国際協調に対する反対要因として、歴史文化的差異、南北間格差があり、潜在的に鋭い対立をはらんでいる。また、ヨーロッパ連合(EU)にみられるような国家から広域共同体への移行は、必然的に国境機能としての検疫を解消していくものと思われる。
[ 執筆者:西澤光義 ]

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