【召公 奭(しょうこう せき)】武王と連合して殷(商)王朝をたおした名君。

【召公 奭】
(しょうこう せき)
 
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zhào gōng  shì
(生没;? ~ 前1053年?)
 
召公 奭(しょうこう せき)は、周朝の政治家。姓は姞(けつ)、諱は奭(せき)。
 
太公望や周公旦と並び、周建国の功臣。
 
召の地(現在の陝西省岐山県西南)を食邑(しょくゆう = 知行所・采邑・領地・封地・封土。)としたことから召公、周召公、召康公または召伯とよばれる。
 
武王の殷朝打倒を補佐し、その功積により燕(現在の河北省北部)に封じられ、都城を薊(ケイ=あざみ:現在の北京)と定めた。
(参照;Wikipedia
 
◇ ◆ ◇
 
[甘棠之歌(かんとうのうた);詩経、国風の召南より。]
蔽芾甘棠、勿翦勿伐、召伯所茇。
蔽芾甘棠、勿翦勿敗、召伯所憩。
蔽芾甘棠、勿翦勿拜、召伯所說。
蔽芾(へいはい)たる甘棠(かんとう)
翦(き)るなかれ伐(き)るなかれ、召伯の茇(やど)りし所ぞ。
 
蔽芾たる甘棠、翦るなかれ敗(やぶ)るなかれ、
召伯の憩いし所ぞ。
 
蔽芾たる甘棠、翦るなかれ拜く(抜く)なかれ、
召伯の說(やど)りし所ぞ。
 
 
こんもりと生い茂った甘棠(かんとう;梨の一種)の木を、
切ってはいけない、切ってはいけない、
召伯(召公奭:セキ)の野宿(野営)した所だ。
 
こんもりと生い茂った甘棠の木を、
切ってはいけない、壊してはいけない、
召伯が休憩した所だ。
 
こんもりと生い茂った甘棠の木を、
切ってはいけない、抜いてはいけない、
召伯が、政務を執り、訴訟を裁いた所だ。
 
◇ ◆ ◇
 
陳舜臣『中国の歴史(一)』p.273より引用。
『(太公望の出自に対して…)召公の場合は、そうではありません。いわば(殷王朝における)周の{西伯昌(文王)や太子発(武王)の}同僚の諸侯の一人として、周の天下取りに協力したのです。はじめから、かなりの力をもっていました。その力が周の建国に、大きな貢献をしたとおもえるのです。「詩経」の召南は、召公の領地の民謡で、そのなかには「おらが殿様」をうたったものもあります。
 
 召公は政務に熱心で、領内の村落をたえず巡察し、訴訟を裁いたといわれます。そして、領民に迷惑をかけてはならないと、甘棠の木の下に野宿したそうです。』