【金玉均】(きんぎょくきん: キムオッギュン)

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[再掲]【金 玉均】(きんぎょくきん : キム オッギュン)

http://blogs.mobile.yahoo.co.jp/p/blog/myblog/content?bid=knight_tukiomi&id=35900557&ySiD=562QVKH_UDgJtf3zAO16&guid=ON

【 #金玉均
人物カード

 ◇ ◆ ◇

(1851-1894)開化派の指導者。

1882年、日本に遊学、 #福沢諭吉 らと親交。

日本にならい、朝鮮の近代化を目指して #甲申事変 を起こすも、
清の介入で失敗し日本に亡命。

日清戦争直前の1994年3月、上海にて閔氏の刺客により銃殺され、
#凌遅刑 に処せられた。

のち、東京港区の #青山霊園 に同志の手により墓が建立された。

[参照]:実教出版「必携世界史用語」
    フリー百科事典Wikipedia、他

 ◇ ◆ ◇

[悲劇の革命家]
敵陣に「 #閔妃 」「 #李鴻章 」「 #西太后 」(のうち1枚以上)が出ると、無条件で捨て札になる。

◇ ◆ ◇

 杉並区の久我山稲荷神社に「金玉均の碑」があります。
久我山稲荷神社は、 #近藤勇 が撤退中の一時休憩所として立ち寄った地でもあるそうです。

◇ ◆ ◇

久我山稲荷神社のサイトより】
(加筆修正)

★韓国の開明的政治家
”金 玉均(きんぎょくきん:キム オッギュン)”
の書による石碑が久我山稲荷神社にあります。

金玉均は、政治的反乱(甲申事変)に失敗し、日本に亡命しました。
(実態は小笠原での幽閉。)

その小笠原の地で、久我山出身で砂糖栽培に成功した飯田氏と出会います。

二人は互いに故郷より遠く離れた地にあって、
「老父へ親孝行もできない」
と互いの身の上を共感し合いました。

●書の達人でもある金玉均は、飯田氏の父に宛て、
“体は(遠く)離れていても(家族や友人を想う)心は同じ”
との気持ちを書として贈りました。

その書が石碑として久我山稲荷神社に奉納され、今も残っております。

●この石碑を見るために、今もわざわざ韓国から訪れる方もおられます。
変わった形の石碑なので、境内に入ればすぐに見つけることができます。

ぜひ、神社へお越しいただき、ご自分の目で御覧いただければ、日韓近代史の息吹に触れることができるに違いありません。

◇ ◆ ◇

こうしん‐じへん
【甲申事変】

1884年(甲申(きのえさる)の年)朝鮮のソウルで、日本の援助を得て開化派(独立党)が起こしたクーデター。清国軍の介入で失敗した。甲申の政変。→天津(てんしん)条約

◇ ◆ ◇

 金玉均日清戦争の直前、朝鮮宮廷の陰謀にかかり、1994年3月、上海にて閔氏の刺客により銃殺され、残酷な方法(凌遅刑)によって処刑されました。

 親交のあった福沢諭吉はこれを深く嘆き、失望したといいます。