【トレカ】山本五十六概説(上)

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山本五十六人物カード

[1884生~1943没]
海軍軍人。新潟県出身。
海軍兵学校卒、翌年、巡洋艦「日進」で日本海
海戦(1905)に参加、負傷。のち、海軍大学校14期
卒業。第一次大戦後の在米勤務ののち、
航空機の将来性に着目。

1929年、ロンドン海軍軍縮会議全権委員次席随員
として渡英。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を
構想、攻撃力に重点を置いた航空機開発、部隊
編制に尽力。39年より連合艦隊司令長官として
ハワイ(1941)・ミッドウェー(1942)作戦などを指揮
するも、1943年ブーゲンビル上空で戦死。


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[咬龍(こうりゅう)]
このカードで攻撃した時、攻撃の成功
不成功に関わらず、必要に応じて
相手を次のターンまで行動不能
できる。相手を行動不能にした場合、
自分も次のターンのターンエンドまで
行動不能になる。


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『やってみせ、言って聞かせて、
させてみて、褒めてやらねば、
人は動かじ』


[人物力;4000]

 ◇ ◆ ◇

 山本五十六明治17年(1884年)、越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれた。
 長岡藩は、米百俵小林虎三郎や、河井継之助らを輩出した地。戊辰戦争では新政府軍の攻撃により、祖父:高野秀右衛門、後に養子となる山本帯刀なども命を落としている。

 五十六は明治37年(1904年)、海軍兵学校(32期)を卒業。
翌年日本海海戦において少尉候補生(砲術士官)として乗艦していた巡洋艦「日進」艦上で負傷。

 大正4年(1915年)、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の山本家を相続。同年、海軍大学校を卒業。

 第一次大戦後は在米勤務。ワシントン海軍軍縮条約(1922)による戦艦・空母等の保有制限もあって航空機の将来性に着目。

 1936(昭和11)年には、海軍次官に就任、翌年には航空本部長も兼務。海軍軍政のナンバー2であり、海軍航空の実質的責任者となった。

 1939(昭和14)年には述志(遺書)を残す。


「一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ、豈(あに)戦場と銃後とを問わんや 勇戦奮闘、戦場の華と散らんは易し 誰か至誠一貫俗論を排し斃れて已(や)むの難きを知らむ」

「死んで君国の恩に報いることは、もとより武人の理想である。戦場であるか、銃後であるかを問うことがあろうか?
 勇戦奮闘し、ただ単に戦場の華と散ることは誰にでもできる。
 だが、誠を貫き、他者の評判に捕らわれず、斃れてついに初志貫徹することの難しさを知るものがあるだろうか?」