【トレカ】山本五十六概説(下)

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1940(昭和15)年9月末、東京荻窪の荻外荘(てきがいそう)に近衛文麿首相を訪ねた山本は、日米戦争の見通しについて

『それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい。

連合側と枢軸側との戦力差がはっきりと開いていることや、政界・マスコミがドイツ軍の快進撃に幻惑されていることを知る山本らは、日独伊三国同盟に強く反対していたが、陸海軍の強硬派が勝利すると、日本は『太平洋戦争』への道を邁進することとなる。


「誠を貫き、他者の評判(俗論)に捕らわれず、斃れてついに初志貫徹することの難しさを知るものがあるだろうか?」

華々しく戦うだけで、人間は真実を得ることができるのだろうか?いや、そうではない。

多数意見の短絡を見抜き、俗論の攻撃を一身に浴びながらも人々の将来の安堵を祈願する辛抱が必要なのではないか?

 アメリカの強盛を識(し)り、アメリカとの対立に備えながらも、現実の開戦に強く反対していた山本は、自らが育て上げた空母機動艦隊を擁して真珠湾に奇襲を仕掛ける。

しかし昭和17年(1942年)、ミッドウェー海戦において、ついにアメリカ海軍の損害:航空母艦1隻に対し、日本海軍は主力航空母艦4隻とその全艦載機300及び熟練パイロットを喪失するという状況に至った。

当時の日本の航空機は「攻撃」に重点が置かれ、「防御や索敵」は軽んじられていたという。

長い時間をかけて育成された貴重なパイロットも、情報不足の中でアメリカ側の物量の前に身を護る盾も無く、弾雨に曝されることとなったのである。

この結果、日本が優勢であった空母戦力は均衡、その後、増強を続ける米側に圧倒されてゆく。

昭和18年(1943年)4月18日、山本は、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、米軍に通信文を傍受・撃墜され戦死した。

享年59歳。

こののち日本は、次第に劣性となり、各地で多くの戦死者を出しつつ原爆投下・敗戦を迎えることとなる。