【旅順攻囲戦】(Wikipedia;『乃木希典』より。)

【旅順攻囲戦】
(Wikipedia;『乃木希典』より。)

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乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団および第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった[78]。

明治37年(1904年)6月6日、乃木は遼東半島の塩大澳に上陸した。このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている[75]。

第3軍は、6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回目の、10月26日に第2回目の、11月26日に第3回目の総攻撃を行った[注 11]。 また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した[79]。

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乃木希典(のぎまれすけ)▲


乃木はこの戦いで正攻法を行い、ロシアの永久要塞を攻略した。第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について、例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった[80]。

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乃木は補充のできない要塞を、正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し、相手を消耗させることで勝利出来ると確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。

第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したものの、十分な補給が行われることはついになかった。

旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時は乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。

しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている[81]。また、大本営は、第3軍に対して、直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を度々出し、混乱させた。


特に203高地を攻略の主攻にするかについては、第3軍の他にも、軍が所属する満州軍の大山巌総司令や、児玉源太郎参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促されたこともあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木たちを混乱させた[82]。

乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた[83][84][85]。
この間、9月21日には、伯爵に陞爵した。

11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。前年5月の長男・勝典の戦死直後、保典が所属していた第1師団長の伏見宮貞愛(さだなる)親王は、乃木の息子を二人戦死させては気の毒だろうと考え、保典を師団の衛兵長に抜擢した。

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伏見宮貞愛(さだなる)親王


乃木父子は困って辞退したが、親王は「予の部下をどのように使おうと自由であり司令官の容喙は受けない」と言い張った[86])。保典の戦死を知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという[87][88]。

長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった[89]。なお、乃木は出征前に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と夫人の静に言葉を残していた[90]。

◇ ◆ ◇

明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付した。
これを受けて1月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した[91][92]。

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※なお、この戦いに関する異説として、旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は、作家の司馬遼太郎が著した小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられるほどとなった。しかし、司馬作品で発表される以前にはその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない[93]。203高地は児玉が来る前に一度は陥落するほど弱体化しており、再奪還は時間の問題であった。

◇ ◆ ◇

 また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は、後の第一次世界大戦西部戦線を先取りするような戦いとなった。

 鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地を、機関銃や連装銃で装備した部隊が守備すると、いかに突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも、塹壕への砲撃はそれほど相手を消耗させないことや、予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であることなど、第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。

 しかし、西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り、第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった[94] 。