【トレカ】林則徐ver.2

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【林則徐(りんそくじょ)】 (1785―1850) [Yahoo!百科事典より]

中国、清(しん)代の政治家。

字(あざな)は少穆(しょうぼく)、諡(おくりな)は文忠。
晩年、竣村(しゅんそん)老人と号す。
福建省候官県(現福州市)の人。嘉慶16年(1811)進士。


 ●自珍(きょうじちん;●=龍の下に共)、魏源(ぎげん)、黄爵滋(こうしゃくじ)(1793―1853)らと詩文の結社をつくり、経世致用の学を提唱し、東河河道総督、江蘇巡撫(こうそじゅんぶ)のときに、黄河の治水や江蘇の水利に尽力して名声を得た。また清廉潔白な清官で、清代最高の官僚と評されている。
 アヘンの害を痛感し、1837年湖広総督に任じてその厳禁に成果をあげ、翌年黄爵滋の厳禁論に賛同する上奏により、アヘン問題解決のための欽差(きんさ)大臣として広州に派遣された。外国商人にアヘン提出を厳命し、強硬手段でイギリス商人などから237万余斤のアヘンを提出させて虎門(こもん)海岸で焼却(化学処理により処分)した。

 一方、西方の事情を理解するため、外国の地理書、法律書、新聞などを翻訳させ、自ら『四州志』『各国律令』を編集して、正当な貿易は保護し、また外国の近代兵器を購入して防衛力を強化しようとした。
 さらに漁民や水上生活者を海上義勇兵に組織して、総力をあげて事にあたろうとした。40年両江総督に任じてまもなくアヘン戦争が始まったが、北進したイギリス軍を目前にして朝廷内で和平論が高まり、戦争挑発者として罷免された。

 41年新疆(しんきょう)省イリに流され、3年後代理陝甘(せんかん)総督、ついで陝西巡撫、雲貴総督として再登用された。この間、新疆の水利建設に努め、また西南少数民族の反乱鎮圧にあたった。

 50年広西の反乱鎮圧の欽差大臣として赴任途上病死した。アヘン商人による毒殺説もある。

 『林文忠公政書』『雲左山房文鈔(しょう)』『雲左山房詩鈔』の著作がある。


[執筆者:小島晋治