++駅伝制度(Yahoo!百科事典より抜粋)

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【駅伝制度】
(Yahoo!百科事典より抜粋)

●駅伝とは、通信および交通制度の一つの形態であり、駅制とも、駅逓(えきてい)ともよばれてきた。現在盛んに行われている駅伝競走も、この制度に由来する。

 駅の本字は「驛」であり、馬偏がついているように、宿場に備えられた継立て用の馬のことをさした。転じて宿場の意味になり、宿駅ともいう。古代の日本では、驛を「うまや」と訓じた。

 伝の本字は「傳」であり、宿場における継立て用の車馬を意味した。字の中に「車」という字が含まれているように、傳は宿場の車もしくは馬車をさした。転じて、馬車を備えた宿場の意味に用いられるようになる。あわせて駅伝という。

 道路を開いて、一定の距離ごとに宿場を設け、馬や車(馬車)を備える。それを乗り継ぎながら重要な通信を送り、あるいは交通運輸の用に供する。

●近代以前には、離れた地点に情報を伝達するにも、人間自身が赴くにも、自らの脚か、馬の脚、あるいは馬に引かせる車に頼らねばならなかった。1人の人間、1頭の馬が、遠い距離を走り通すことは困難であったから、継送または逓送の必要が生じた。ここに駅伝の制度が発達したわけである。
 しかも駅伝の制度は、広い範囲にわたって設けなければならない。開設するにも維持するにも、多額の費用を要する。また安全を保障するためには強い支配力を要する。したがって駅伝制度は、強大な統一国家のもとで、その支配をいっそう確固たるものとするために設けられたのであった。

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4. モンゴル帝国の駅伝
●中国の駅伝制度は、西域の諸国でも取り入れられた。またイスラム世界においても、ペルシアやローマの制度に倣って駅伝の施設を整備した。イスラムの使者は騎馬を活用し、ときにはラクダやラマを用いることもあった。

 しかし、駅伝の制度を広大な領域に完備して、東西の交通や通信に大きな役割を果たしたのは、モンゴル帝国であった。モンゴル帝国の領域は、アジア大陸の東端から、西はキプチャク・ハン国のロシア、イル・ハン国のイランに及ぶ。
 その全域にジャムjam(駅)を配置し、乗馬を多数備えたほか、宿泊の施設を整えた。公用の使者や旅行者には特別の牌(はい)(切符)が与えられ、それによってジャムの施設を利用することができた。
 モンゴルの時代に、内陸の道路を通じてヨーロッパとの往来が盛んになったが、それもジャム、駅伝の制度が完備された結果である。しかしモンゴル帝国が衰えると、駅伝の施設も廃絶し、陸路による東西の交流はとだえるに至る。

 その後も中国では、明(みん)代から清(しん)代を通じ、駅伝は大いに発達していた。ただし施設としては、旧来の駅・伝にかわって、「郵」と駅とが主体になっている。郵は歩卒によって官文書を逓送し、駅は馬匹によって官文書の逓送および官物の運輸をつかさどった。