【黄帝】神代中国を再統一した漢民族の祖。[歴史トレカ:the Historical Crystal]

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黄帝神代中国を再統一した漢民族の祖。
[歴史トレカ:the Historical Crystal]
【誕生】[紀元前2510年(?)]
黄帝は『三皇五帝』の五帝の始め。
少典氏が有蟜
(ゆうきょう)氏の娘:附宝(ふほう)を娶り、黄帝(軒轅;けんえん)が生まれた。異母兄『神農』は姜水(きょうすい)のほとりで育ち、植物について多くを学び、民から慕われて初代「炎帝」となり、最期まで民を大切にして亡くなった。弟『軒轅』は姫水(きすい)のほとりで育ち、幼少のころから整然とものを言うことができ、また聖徳のすばやいひらめきがあった。
●当ゲームでは、『神農』の生年を「紀元前2700年(?)」としたので、およそ200歳離れた異母兄弟、ということになる。
原典を比較しても、父が違うもの、母が同じもの、神農と黄帝とが直接対決したものなど、様々なバリエーションが伝えられているようだ。
●神代から、やがて人間の君主が登場するまでの間、生没年や年齢にバラツキがあるのは、神話伝承の「お約束」(笑)
だが、文字のなかった時代の伝承の中に、人間社会の真実のようなものが巧みに表現されている、と感じられるところがとても楽しい。
 
炎帝討伐】えんてい-とうばつ
時は流れ、初代神農の子孫が「炎帝」の称号を継いでいたが、その徳は衰え、諸侯は争い、人民を傷めつけた。炎帝一族は、自身で世の乱れを収められず、代わって軒轅が軍備を整え、みだりに殺しあう諸侯を討った。大戦乱の末、暴風雨の神を味方とする蚩尤(しゆう)だけが最後まで暴れ続けたので、軒轅は視界が悪くても方角を見失わぬよう、からくり仕掛けの方位測定器「指南車」を発明。風雨を制御する神獣応竜や、旱魃を駆使する仙女:(ばつ)の力を借りてついに蚩尤を捕らえ、処刑した。
●貴族階級の長が、長男に自分の地位を引き継がせることが普通だった時代、「世襲」というシステムにもひとつの「理」があったのではないかと思う。
書物の価格が高かった時代、父は多くのリスクを負いながらも子に知識や仕事のテクニックを懸命に教え込もうとしたはず。
「名君」と呼ばれる君主が、身分の低い人々のためにわざわざ学校を創る、という例は、極めて稀な現象だったのではないか。
●学問上の制限により優れた子供が育つ可能性は低く、多くの子供たちを「家学・家塾」のような場で学ばせ、特に優れたものを後継者として選ぶ、というやり方が、一般的だったのだろう。
●そういった「世襲」の環境の中、「嫡子(長男)」が優秀に育った場合には、一族は安泰であったかもしれない。
問題なのは、嫡子が凡庸であった場合である。この場合、世襲システムにつきものの、「骨肉の争い」「血の争い」というものが必ず発生してしまう。
世襲システムの弱点は、この一点に尽きる』、と言ってしまっても過言ではないと思える。
 
【治世】ちせい
諸侯はみな軒轅を尊敬し、「黄帝(=土徳の天子)」の称号を与え、新たな天子とした。黄帝軒轅の治世には、東は山東省の海辺、西は甘粛省の山中、南は揚子江を渡って湖南省、北は匈奴を追って、現在の万里の長城のあたりまでを勢力圏に収めた。また、古くなった暦を改訂し、貴族・臣民の隔てなく、新たな人材を登用し、すみずみまで行き届く行政を行った。更に、科学全集『黄帝内経』を編さんし、医術・鍼灸・気功、易学・天文などに貢献した。
黄帝の著とされる医術書黄帝内経(全元起編:紀元5世紀末)と神農の著とされる医薬事典『神農本草経』(陶弘景編:紀元500年頃)の二つの大典が中国医学の起源と言える。
紀元前3000年の中国において、伝説上の名君:神農・黄帝がこれらの医学書を編纂したとされている。
●紀元2世紀後半、つまり後漢末、諸侯が乱立し、苦しむ民衆が道師;張角を奉じて「黄巾の乱」を起こした時代には、(衛生行政の低下のためか?)疫病が頻発し、この時代の医者;張仲景が「傷寒論」を著して、疫病の発生から病中・病後の詳細についての観察・研究をまとめることで、中国の医学は、現代にまで通ずる根本理論を確立した。
●これらの医学書は、遣隋使・遣唐使の時代も含め、何段階にも渡って日本にも伝えられ、江戸時代、鎖国によって文化交流が制限される中で、日中それぞれの発展を遂げ、「中医学(中国医学)」「漢方医学」として現在に伝えられている。
【昇天】[紀元前2448年;享年62歳]
黄帝は首山の銅を採って、荊山(けいざん)のふもとで鼎(かなえ:三つ足の大鍋)を鋳造し、天に世の平安を報告した。すると、ヒゲの長い一匹の竜が迎えに下り、黄帝はそれに乗って昇天した。臣下は競って竜のヒゲをつかまえ、黄帝の弓にすがりついて共に昇天しようと望んだが、ヒゲは抜け、弓も落ちてしまったので、ついてゆくことができず、天を仰いで泣き叫んだが、二度と黄帝が戻ってくることはなかった。
●自ら百草を試食しながらも120歳で病没した半獣半人の神農に比べ、諸侯を平定し、行政を充実させた黄帝は、62歳で天の龍神に迎えられ、激しく惜しまれながら昇天していった。
半神半人の名君;黄帝は、神としてはあまりにも短命な最期を迎えた。
これほどの名君が世を去るとき、人々は「自分も共に天に召されたい」と強く願ったのだろう。
●君主が崩じた時の臣下の後追い自殺や、それを諌める君主の姿が象徴されているように見える。
優れた後継者は、君主の死においてその高い志をしっかりと受け止め、たとえその先に苦しみが待ち受けているとしても、人々のため、生き続ける責任があるのではないだろうか。