【検疫:2】Yahoo!百科事典より転載。

 

2. 日本における検疫の概念と制度

 
 「えやみ」「ときのけ」などとよばれた伝染性の疾患は、日本では、下痢症状を特徴とする「痢」と、皮膚の発疹(ほっしん)を特徴とする「疹」または「瘡(そう)」がおもなものであった。
 「痢」において、病者の糞便(ふんべん)や病床に接することを戒めることは古くから知られていたが、それ以上に厳格な隔離、検疫に相当する処置は、元来風土病として存在していたと思われる「痢」「疹」については記載がない。
 
 これに対して、朝鮮半島経由の外来性疾患と考えられる痘瘡(とうそう)(天然痘(てんねんとう))については、厳重な衛生措置の記録があるのは注目される。
 12世紀、藤原通憲(みちのり)(信西(しんぜい))編の『本朝世紀』残巻には、この病を「異病」と称して、別居をつくり病者を「喪にあるもののごとくに」隔離したという記述がある。
 
 下って1806年(文化3)、池田錦橋(きんきょう)著の『国字痘疹(とうしん)戒草』にも「肥後(ひご)国天草(あまくさ)、熊本、周防(すおう)国岩国、紀伊国熊野、信濃(しなの)国木曽山中、御嶽(おんたけ)山の辺等において、痘瘡患ふものあれば、一郷一村を隔て、人家を去ること一二里にして、山野深谷に小屋をしつらひ、或(あるい)は農家を借りて傍人を附け置きて、食物など、始(はじめ)に運ばせ、一家親類たりとも出入りを止めて、医を迎へて薬を用ふることも少なし」とある。
 この記述は、疾患伝播(でんぱ)の方向性、山岳民族山人(やまびと))中心の検疫措置情報の伝達経路などを示唆していてまことに興味深い。
 
 19世紀(江戸後期)になると外来性伝染病の主役はインド由来のコレラにとってかわられ、1822年(文政5)には第一次大流行をみた。
 1855年安政2)、長崎に開設された海軍伝習所では、当初から「カランテーレン(オランダ語で検疫所の意)」に関する言及がなされていたことは勝海舟(かつかいしゅう)の証言がある。
 1862年文久2)、幕府は洋書調所に命じて虎列刺(コレラ)病に対する予防、疫学、治療などの要件を諸書にあたって編訳せしめ、杉田玄端(げんたん)、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、坪井信良、子安鉄五郎などによって『疫毒予防説』が刊行された。
 このなかで「quarantine(キュアランタイネ)」が初めて検疫法と訳されて、当時のヨーロッパにおける措置、方策が詳細に紹介されている。
 しかしながら、日米和親条約以降、不平等条約下にある幕府にはそのような施策を実行に移す意志も力もなかった。
 
 1879年(明治12)、太政官(だじょうかん)布告により「海港虎列刺病伝染予防規則」が制定されたが、これはいわゆる不平等条約の対象外の清(しん)や朝鮮との間の便船を想定対象として、これらの地域でのコレラ流行時における臨時的措置を定めたものにすぎなかった。これに基づいて、横須賀(のちに移転して横浜郊外長浜)に消毒所(のち検疫所)が設けられたが、これは鹿鳴館(ろくめいかん)時代を反映して、想定対象とは別に諸外国の目を意識して完備された施設を整えようとしたものであり、当時の日本の水準をこえた新奇ハイカラなものであった。
 
 一方、このような浮薄な動向に対して、細菌学、公衆衛生学それぞれの歴史的背景にまで目をやりながら、輸入されつつある衛生概念を的確に整理し、防疫、検疫、建築、都市計画などに対する基礎概念の一つとして位置づけたのが森鴎外であった。この概念の普及を図るとともに、伝染病危機管理のための実行部隊としての「消毒隊」の設置などを提起した鴎外の明治20年代初頭の活動は注目に値する。
 
 1894年以降、ようやく順次条約改正に成功した明治政府は、1899年それらの条約の実施にあたって、海港検疫法に基づく検疫所の設置、裁判管轄権の議定関税法公布による関税率の引上げなどを次々に行って、近代独立国家としての形態を国境線において整えることができた。
 なお、1899年9月、横浜検疫所では検疫医官補として勤務していた野口英世がペスト患者を発見し、菌の同定、船の停船命令など初の検疫措置発動に関与している。
 
 海港検疫所は当初は内務大臣の管理下にあり、1927年(昭和2)航空検疫規則により始まった航空機を対象とする検疫もこれに準じたが、1938年、内務省より分離独立した厚生省の所管となった。
 
 第二次世界大戦敗戦により、検疫は1945年からは一時、連合国最高司令官総司令部(GHQ)指揮下に入った。1950年には検疫主体は日本政府に戻されたが、在日駐留軍に関する検疫は除外され、この名残(なごり)は現在も日米地位協定による特例措置として存続している。
 
 1951年、日本はWHOに加盟、国際衛生規則に準拠する形で検疫法が制定され、これが日本の海・空港における検疫の法的根拠となった。以後その施行令の改正は、人権や通商の円滑を重視し、医学常識の変化や新たに防疫を必要とする疾患に対応するべく頻回に行われながら現在に至っている。
 

3. 検疫所の仕事

 
検疫法に定められた全国80余か所の検疫港、20余か所の検疫空港に対して、検疫所13か所およびその支所、出張所が設置されている。
 
 船舶の検疫では、船の国籍、船籍を問わず外国から日本の港に入港しようとする船の船長は、その第1番目の港を管轄する検疫所長に対して、感染症患者の有無などに関する検疫前通報をすることが義務づけられている。
 現在この通報は、無線を備えていない船などごくわずかな例外を除いて、すべて無線による連絡情報に基づいて明告書の形で提出される。
 これを受けて、とくに問題がなければ検疫済証を交付して港湾使用を許可する(無線検疫、1971年より導入)か、明らかに問題が認められるなど、その疑いのある場合は、当該船に黄色の検疫要請旗を掲げさせたまま、港内所定の検疫区域または桟橋に停船させて、検疫艇により出向した検疫官が乗船して検査する(臨船検疫)。
 
 検疫感染症に該当する患者がいる場合、あるいはその病原体に汚染されたおそれのある場合は、患者の隔離、接触者の停留、汚染物などの消毒、移動禁止、廃棄などの措置をとる。
 
 航空機の検疫は、機内に感染者がいる場合には船舶に準じた措置がとられるが、病気の潜伏期間に比べて航行時間が短いため、患者を発見できる可能性は少なく、水際での防疫に明らかな原理的限界がある。
 さらに、出入国者のほとんどが航空機を利用し、海外渡航者の数が飛躍的に増大した今日では、実務的限界もまた明らかとなっている。
 検疫感染症その他の疾患の汚染地域を発航または寄航する便の乗客に対しては、機内で質問票を配付して記入を求め、到着後ターミナル内の検疫カウンターでこれを回収してチェックするなどの方法がとられているが、自主的申告に頼るものであることに変わりはなく、その申告を動機づけるべき外来感染症に対する市民の危機意識も、日本では国内の安全が行き渡った結果、同程度の経済、社会体制にある諸外国に比べてかえって低いレベルにあるといわざるをえない現状である。
 
 そのほか、検疫法で定められている業務には、人や貨物に対する検疫感染症(とくに輸入生鮮魚介類におけるコレラなど)の病原体の有無を調べる衛生学的検査、船舶および航空機に対するネズミ族や虫類の駆除、飲料水や汚水の検査、海・空港内およびその周辺の衛生調査、世界の感染症や健康に関する情報の収集と提供、予防接種の実施とその証明書の発行などがある。
 ただし、現在一部の国への入国にあたって国際予防接種証明(イエローカード)が必要とされることがある疾患は黄熱病のみである。
 
 また、これらとは別に、1951年以降、厚生本省が行ってきた輸入食品の安全性に関する検査が、1982年度から検疫所で行われるようになったが、これは食品衛生法に基づく業務である。
 
 輸入食品の種類およびその量の圧倒的な増加に伴って、この監視、検査業務はいまや検疫所の人的活動力の大半を奪うものとなっているにもかかわらず、流通の大量化、高速化、多様化のなかでは、その無作為抽出による規定項目検査の意味は疑わしいものになりつつあるのが実情であり、狂牛病(BSE、ウシ海綿状脳症)に汚染された食肉の規制や、海外(とくに中国)で加工された輸入食品の安全性確保など問題は山積している。