【抱擁】

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「ただいまぁ~~♪」
芙美子の元気な声が狭いアパートの部屋中に響き渡った。

「おかえりぃ~~!!」
娘の晶子と、息子の剛徳が転がるように玄関まで走り出してくると、
そこには芙美子に伴なわれて、小太りで、物腰やわらかそうな中年男が微笑んでいた。

「こんにちは」
夏目高太郎は、子供たちの姿を見て一瞬密かな戸惑いを覚えはしたものの、
柔らかい口調で挨拶する様子には、そんな戸惑いをつゆとも見てとることはできない。

「こんにちはーー!」
子供たちも、そんな夏目高太郎の様子に安心したのか、元気な挨拶を返すのだった。

「母さんの会社の友達で夏目高太郎さんよ♪」
先刻の不安がいくらか和らぐ思いで、芙美子も嬉しそうに上司を紹介する。

「はじめまして、夏目高太郎です」

「私、兵頭晶子です!」
犬のように前へ突き出し、獣毛に覆われた晶子の口から、
母親に似て明るくハリのある少女の声音が響き出してくる。

「・・・ぼ・・・ボク・・・、剛徳・・・です・・・」
弟も姉につられて名乗ろうとはするものの、その途切れがちな口調には他人との接触が苦手な
剛徳の性分が感じられるようで、姉と弟とのコントラストがいかにも子供らしく、夏目高太郎も
この家族のありように自然と微笑みがこぼれてしまう思いだった。

「寒いでしょ、早く炬燵に入って。簡単なものでも作るわ♪」

いかにも安アパートらしい小さな台所で、子供たちのためにと途中のスーパーで買ってきた
魚や野菜を刻む芙美子の後ろ姿は、ありふれた、どこにでもある母親の姿そのもので、
夫を亡くしたという悲しみや、その夫がディフォミティとして抑圧されていたという影のようなものは
微塵も感じられない。

「2人はいくつなの?」
高太郎は、ディフォミティである子供たちに、いまだわずかに残る自分の戸惑いをできる限り
悟らせまいと、あたりさわりなく尋ねた。

「私は12歳、剛徳は双子の弟なんです」

「小学生?」

「春から中学生です、中学の制服、早く着てみたいな☆」

明るく、元気に答える晶子に比べ剛徳は、時折探るようにちらりと高太郎の顔を見ては、
すぐにうつむいてしまう。

芙美子や他のパートタイマーたちと付き合う中で夏目高太郎は、
この母子の家庭事情についていくらかのことは聞いていた。

(ディフォミティの姿に驚いたこと、悟られちゃったかな・・・)
ふと気になっていると、芙美子が夕食を持ってきた。

「晶子、剛徳、今日は遅くなっちゃってごめんね」

「いいよ、お母さん、ずっと働きっぱなしだもの、息抜きも必要だわ」
利発な晶子がやさしく弁護する。

4人は、小さな炬燵を囲んで、塩鮭の焼き物や、葱の香りも瑞々しい卵焼きなど、
けっして贅沢ではないが、口いっぱいに幸せのひろがる夕餉の時を楽しんだ。

「炬燵を囲んで家族でごはん・・・、ボクこういうの憧れてたんだよなァ~」

「あら、夏目さんて、彼女とかに作ってもらったことくらいあるんじゃないの?」

「いやぁ~、ホント仕事一本で、そういうのって全然縁がないんですよねぇ~」

真面目で、一生懸命で、優しくて、それでいて男らしい強さも備えている。

(このひとと一緒なら、もう、昔の悲しみや憎しみを、
すっかり拭い去ってしまえるかもしれない・・・)

屈託のない笑顔を満面にこぼして子どもたちと笑いあう夏目高太郎の姿に、
しっとりと絆(ほだ)されてゆく心の道を、芙美子自身が最もよく見極めているのだった。

それが、女手一つで2人の子を育てる母としての、また一方では、
良き異性とめぐり逢いたいと願う一人の女としての、芙美子の正直な感想だった。

帰りぎわ、門まで送る芙美子の両肩を、高太郎は思わず抱いた。

「あ・・・夏目さん・・・」

「好きです、ずっと・・・こうしていたい。
あなたと子供たちの暮らしを、今よりももっと幸せにしてあげたい・・・」

高太郎と芙美子の仕事上の付き合いは、もう3年以上にもなる。

互いに信頼する仕事仲間として付き合っていたつもりの2人であったが、
その3年の歳月が2人の間に仕事仲間以上の感覚を、ゆっくりと、ゆっくりと育てつつあったことに、
初めて気付いたのだった。

けっして芙美子を放すまいとするかのように、
それでいて彼女のやわらかな魂を押しつぶすまいとするかのように、
抱きしめる夏目高太郎の潤んだまなざしが、芙美子のまなじりにも光るものをとらえてゆく。
真冬の寒気も緩むほどに上気する唇を、ふわりと触れあった。

やがて高太郎が促すと、芙美子は甘い想いにじわりと身をひたしつつ、
子供たちの待つ小さな部屋へと戻っていった。

そんな芙美子の女らしさを見守る高太郎の手には、芙美子の艶やかな頭髪が数本、『採取』されていた。