【袁世凱】

イメージ 1

袁世凱(えんせいがい)

拼音: Yuán Shìkǎi
(1859―1916)
中華民国の初代大総統。河南省項城県の生まれ。日清(にっしん)戦争前は、朝鮮で政治、軍事に手腕を発揮し、李鴻章(りこうしょう)の信任を得て、総理交渉通商事宜(じぎ)としてソウルに駐在し、朝鮮の内治、外交に干渉して属国化した。
 
日清戦争の敗北後、軍制、軍隊の近代的改革を断行し「新建陸軍」を組織した。これが後の北洋軍閥および袁の政界進出の礎石となった。このとき、袁の養成した部将が民国後の北洋軍閥の首脳となる。
 
李鴻章の没(1901)後、直隷(ちょくれい)総督兼北洋大臣となり、自己の勢力を強化拡大していった。日露戦争後、袁の伸張に対する満州官僚の巻き返しによって、一時下野を余儀なくさせられるが、辛亥(しんがい)革命の勃発(ぼっぱつ)によってふたたび軍事の全権をゆだねられ、1911年11月内閣総理大臣となり、清朝政府の実権を掌握した。
 
●1912年2月、南方政府の譲歩を引き出し、清帝退位と引き換えに臨時大総統の地位につき、中華民国が成立する。その後、袁は、帝国主義列強の支持を背景に革命の成果を骨抜きにしていった。大総統の権限を制約しようとする議会の動きを、国民党首脳宋教仁(そうきょうじん)の暗殺によって抑制し、さらにそれを契機に起こった「第二革命」を武力鎮圧した。
 
●1913年10月には正式に大総統となって、国民党の解散を命じるとともに新約法を公布して独裁を強化し、1915年には帝制運動を開始した。袁の政府には、自国の利権の扶植を図る多くの外国人「顧問」がおり、帝制運動の画策に大きな役割を果たした。
 
●しかし、日本の二十一か条要求に対する中国のナショナリズム(民族主義)の高揚、1915年末の雲南蜂起(ほうき)を契機に各地で起こった反袁運動の拡大により、列強も帝制取消し勧告、ついに1916年3月、袁は帝制取消しを宣言した。その直後、討袁の続くなかで没した。
[ 執筆者:南里知樹 ]