【アルキメデスのポンプ】

[科学]
アルキメデスのポンプ】
 
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アルキメデスの螺旋】(あるきめですのらせん)
 
 アルキメデスが考案したといわれる揚水装置。「アルキメデスのポンプ」ともいわれる。
 
 構造は細長い円筒の中に、ねじ状に深い溝を刻み込んだ軸をぴったりはめ込んだものである。この筒の一端を水の中に入れ人力で筒を回転させると、下方の水がねじ状の溝の空所を通って汲(く)み上げられる。
 
 螺旋そのものはアルキメデス以前から知られており、同様な仕掛けの揚水機はエジプトで灌漑(かんがい)用として長い間使用されていた。
 場所をとらないことから、近世初めのスペイン、ポルトガルその他の鉱山で盛んに使われた。
 
 日本へも中国を介して1637年(寛永14)に佐渡金山に導入され、竜尾車、水上輪などとよばれ、その後農業用に普及した。
 
[ 執筆者:山崎俊雄 ]
カテゴリ一覧:自然科学 > 科学技術 > 科学技術史
 
◇ ◆ ◇
 
アルキメデスArchimds (前287―前212)
 
 古代ギリシアの科学者、数学者、技術者。シチリア島シラクサ出身。一時アレクサンドリアに遊学したが、のちシラクサに帰り、縁故のあるシラクサ王ヒエロン2世Hiern やその子ゲロンGelnの援助で研究に励んだ。
 
 当時は地中海の覇権をめぐってローマとカルタゴの間のポエニ戦争のさなかにあり、シラクサカルタゴに味方していた。アルキメデスも第二次ポエニ戦争(前218~前201)ではシラクサのためにさまざまな武器を開発して祖国に尽くした。
 
 彼の著作は、今日、数学的、物理的なものが10編余り残っているが、そのいくつかは興味あるエピソードと関連している。あるとき彼は、「私にどこか(地球以外の)足場を与えてくれるなら、地球を動かしてみせる」と豪語した。そしてその証拠として、彼は、海岸にあった3本マストの軍艦を、複滑車を使って1人で岸に引き揚げた。これは彼が「てこの原理」に精通していたからで、その解説は彼の著『平面板の平衡』に書かれている。
 
 ヒエロン王が職人に純金の塊を与えて王冠をつくらせたところ、その王冠には金をいくらか抜き取って銀が混ぜてあるという告発があった。この問題の解決を頼まれたアルキメデスは、ある日、湯がいっぱい入った浴槽につかったとき、浴槽につかった自分の身体と同体積の湯があふれ出し、体重も軽くなることを発見して、喜びのあまり「ヘライカ、ヘライカ(みつけた、みつけた)」と叫びながら裸で街を走ったという。これは、王冠と同じ重さの純金、純銀、それに金と銀を混ぜたという王冠を、水を張った同じ容器にそれぞれ入れて、あふれ出る水の量で王冠の不正を見破ったわけで、「アルキメデスの原理」として知られ、彼の著作『浮体』第1巻の説明に当てはまる。
 
 また彼は、大数を表すために、宇宙に砂粒をいっぱい詰めると、その砂粒の数はどれくらいになるかを計算し、現代式ではその数は10の63乗より少ないとし、この大数の表記法を『砂粒を数えるもの』のなかで述べている。このほか、「アルキメデスの螺旋(らせん)」を発見したり、円周率すなわち円周と直径との比率について「円周はその直径の70分の220より小さく、71分の223よりは大きい」と算出した。
 
 第二次ポエニ戦争中は、大形の強力な投石器をつくったり、起重機のような機械で敵船を海面にたたきつけたりしてローマ軍を悩ませたという。 しかしローマ軍の兵糧攻めの前にシラクサも陥落した。
 その日、アルキメデスが家で図形を描いて研究しているところへローマの一兵卒がきて彼を捕まえようとした。彼が「私の図形に近寄らないでくれ」といったとき、兵卒は彼を刺し殺した。
 
 死後の建立を託していた彼の墓碑には、彼が発見した「球の体積はそれに外接する円柱の3分の2である」の図形が彫ってあった。
 
 アルキメデスは、理論と実際の結合こそ科学を向上させると考えた古代では珍しい科学者であり、その著『方法』では、その研究の方法まで赤裸に示している。
[ 執筆者:平田 寛 ]