【西伯昌 ( 周の文王) 】

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【 西伯昌 (周の文王)】

●西伯昌(紀元前1152年頃生-紀元前1056年頃没)は、中国の周王朝の始祖。武王の父。
『殷王朝の西部を治める伯爵の昌さん』という意味で、「西伯昌」と呼ばれる。

西伯昌は殷に仕えて、三公(最高幹部)の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山(きざん)のふもとから西安の近くに遷都し、仁政を行ってこの地を、殷に勝るほど発展させた。

●この時期、紂王のもと殷の国力は衰え、三公派(西伯昌・九侯・鄂侯(がくこう))と佞臣(ねいしん)崇侯虎(すうこうこ)派との対立の中で、崇侯虎らの讒言(ざんげん)により、九侯・鄂侯は残酷な処刑を受け、西伯昌は監獄に幽閉された。

更に、人質として殷に送られていた嫡子:伯邑考(はくゆうこう)はその身を生きながらに切り刻まれ、羹(カン:あつもの=スープ)に調理され、西伯昌に供され、西伯昌はその料理が何んであるかを知りながらも、黙ってそれを賜食(ししょく)した。

●西伯昌は獄中にあって『天命』を占うための筮竹(ぜいちく)による占いの集大成といえる『周易(易経)』を編纂。のち、太公望呂尚らの活動もあって、財産と領地を紂王に献上することで釈放。

亀卜(きぼく)で氏神の御機嫌を伺い、狩猟によって獣や奴隷を集め、大酒を呑んでは奴隷を殺す殷とは対照的に、天命に従って人材を活用し、農業による蓄財、軍事力の増進を図る新興勢力:周は、やがて周辺諸侯・部族からの強力な支持を集め、殷王朝を圧倒するまでの力を蓄える。

●西伯昌はしかし、こうして勢力の伸張を実現するも、飽くまで殷王朝に対し臣下の礼を取り続け、ついにその天寿を全うする。

殷王朝に対し、本格的に反旗を翻したのは、次男の武王。
ついに天下の覇権を奪い取った武王は、父の業績を称え、「文王」と追号した。