福沢諭吉と母お順 「元気と活力の青春歴史講座」 ~親子の感動物語~
福沢諭吉と母お順 「元気と活力の青春歴史講座」 ~親子の感動物語~
10月に大垣教室と岐阜教室で行いました講座では一万円札の顔にもなっている福沢諭吉を取り上げました。
福沢諭吉は天保6年(1835年)中津藩士の父百助と母お順との間に大阪で生まれます。
父が急死したあと、家族は郷里の中津藩(いまの大分県中津市)へ帰り、諭吉は幼少期・青年期を中津で過ごします。
福沢諭吉と言えば『学問のすゝめ』を書いた人であり慶応義塾大学の創始者で、諭吉は頭のいいイメージがありますが、実は意外にも12歳になるまでほとんど本が読めなかったのです。
その年から塾に通いはじめ一生懸命勉強しました。
やがて藩の命令で長崎で蘭学を学び、さらには大阪にいた兄のもとへ住みながら、緒方洪庵の適塾に通うようになりました。
◇ ◆ ◇
(1)諭吉と母お順の話
諭吉が適塾へ通い始めて1年たったとき、お兄さんが急死します。
親戚の人も諭吉に「中津へ帰ってこい」といいます。
中津へ帰るのはいやでしたが、帰らざるを得なくなります。
そして、諭吉は藩から役をもらいます。
それは中津城の門番の役でしたが「自分は藩の命令で蘭学を勉強していたのに」と不満を持ちます。
そのことを親戚の人にしゃべると「藩主の命令になんてことをいうのか」と叱られます。
そして「もう一度蘭学を学びたいので適塾へ行きたい」と頼むしかないと思い、親戚の人に頼みます。
しかし、猛反対されてしまいます。
諭吉は「蘭学の勉強が中途半端で終わっていますので大坂に行かせてください」といいますが、相手にされません。
最後に諭吉は無理を承知で母のお順に頼みます。
お順は
「自分はこの先あまり長くない。だから自分のことは心配しないでいい。そんなに蘭学の勉強がしたいなら大坂へ行ってきたらいい」と言ってくれます。
母の言葉に諭吉は心を打たれました。
そして、諭吉は藩に許可を求めます。
許可を認められた諭吉は大坂の適塾へ再び出発します。
だれも親戚は見送ってくれない中、母だけは一人旅立つ諭吉を見送ったのです。
このことは諭吉の人生にとって大変大きなことだと思います。
母お順の言葉がなければ諭吉は中津に留まって一生過ごしていたのかもしれません。
慶応義塾を創設し、「学問のすゝめ」を執筆することはなかったでしょう。
その後、諭吉は適塾で塾長になります。
次は中津藩の命令で江戸の中津藩屋敷内に蘭学塾を開きます。
◇ ◆ ◇
(2)独立自尊と諭吉
諭吉自身が開いた慶応義塾では歴史の話を例に引きながら独立自尊の話を説きました。
桶狭間の戦いで負けた今川家の家臣たちは主君の今川義元に頼っているだけだった、だから義元が討たれたと分かると一目散に家臣は逃げ帰ったのだと諭吉は見ています。
「依頼心ではだめなのだ、自立心が大事なのだと」諭吉は主張します。
また商家の例をとって次のように述べています。
「主人を恐れる気持ちはあるかもしれないが、部下が主人を思う気持ち、主人と部下との関係を大切しなければこのような組織は弱い」と。
そのためには「一人一人が持つ独立自尊の精神が重要であると」説いています。
サラリーマンにとっての独立自尊とは何かと私は考えました。
私は「諭吉は慶応義塾の経営者であるが、自分はそういう立場ではない。」と考えていました。
しかし諭吉の独立自尊の意味を知るにつれて、私は次のように思うようになりました。
自分の属する組織は「自分の組織だ」という意識が重要であると。
「自分の会社だ」「自分の部署だ」という思いになれば愛着が湧くし、自分のことのように思えるからです。
諭吉の後、慶応義塾の塾長を継いだ鎌田栄吉氏は「自分のごとく思えることが独立自尊である。独立自尊には会社や銀行や商店を自分のように思える強い思いがなければいけない。
上司の命令には従うけれども、その命令を自分のことのように思わなければいけない」と述べています。
独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。
人民の独立の気力あらざれば文明の形を作るも 啻(ただ)に無用の長物のみならず、 却(かえ)って民心を退縮せしむるの具となるべきなり。
独立の気力のなき者は必ず人に依頼す。
人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。
常に人を恐れ、へつらう者は次第にこれに慣れ、その面(つら)の皮鉄の如くなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。
いわゆる習い性となることはこの事にて、慣れたることは容易に改め難きものなり。
(福沢諭吉著 「学問のすゝめ」)
10月に大垣教室と岐阜教室で行いました講座では一万円札の顔にもなっている福沢諭吉を取り上げました。
福沢諭吉は天保6年(1835年)中津藩士の父百助と母お順との間に大阪で生まれます。
父が急死したあと、家族は郷里の中津藩(いまの大分県中津市)へ帰り、諭吉は幼少期・青年期を中津で過ごします。
福沢諭吉と言えば『学問のすゝめ』を書いた人であり慶応義塾大学の創始者で、諭吉は頭のいいイメージがありますが、実は意外にも12歳になるまでほとんど本が読めなかったのです。
その年から塾に通いはじめ一生懸命勉強しました。
やがて藩の命令で長崎で蘭学を学び、さらには大阪にいた兄のもとへ住みながら、緒方洪庵の適塾に通うようになりました。
◇ ◆ ◇
(1)諭吉と母お順の話
諭吉が適塾へ通い始めて1年たったとき、お兄さんが急死します。
親戚の人も諭吉に「中津へ帰ってこい」といいます。
中津へ帰るのはいやでしたが、帰らざるを得なくなります。
そして、諭吉は藩から役をもらいます。
それは中津城の門番の役でしたが「自分は藩の命令で蘭学を勉強していたのに」と不満を持ちます。
そのことを親戚の人にしゃべると「藩主の命令になんてことをいうのか」と叱られます。
そして「もう一度蘭学を学びたいので適塾へ行きたい」と頼むしかないと思い、親戚の人に頼みます。
しかし、猛反対されてしまいます。
諭吉は「蘭学の勉強が中途半端で終わっていますので大坂に行かせてください」といいますが、相手にされません。
最後に諭吉は無理を承知で母のお順に頼みます。
お順は
「自分はこの先あまり長くない。だから自分のことは心配しないでいい。そんなに蘭学の勉強がしたいなら大坂へ行ってきたらいい」と言ってくれます。
母の言葉に諭吉は心を打たれました。
そして、諭吉は藩に許可を求めます。
許可を認められた諭吉は大坂の適塾へ再び出発します。
だれも親戚は見送ってくれない中、母だけは一人旅立つ諭吉を見送ったのです。
このことは諭吉の人生にとって大変大きなことだと思います。
母お順の言葉がなければ諭吉は中津に留まって一生過ごしていたのかもしれません。
慶応義塾を創設し、「学問のすゝめ」を執筆することはなかったでしょう。
その後、諭吉は適塾で塾長になります。
次は中津藩の命令で江戸の中津藩屋敷内に蘭学塾を開きます。
◇ ◆ ◇
(2)独立自尊と諭吉
諭吉自身が開いた慶応義塾では歴史の話を例に引きながら独立自尊の話を説きました。
桶狭間の戦いで負けた今川家の家臣たちは主君の今川義元に頼っているだけだった、だから義元が討たれたと分かると一目散に家臣は逃げ帰ったのだと諭吉は見ています。
「依頼心ではだめなのだ、自立心が大事なのだと」諭吉は主張します。
また商家の例をとって次のように述べています。
「主人を恐れる気持ちはあるかもしれないが、部下が主人を思う気持ち、主人と部下との関係を大切しなければこのような組織は弱い」と。
そのためには「一人一人が持つ独立自尊の精神が重要であると」説いています。
サラリーマンにとっての独立自尊とは何かと私は考えました。
私は「諭吉は慶応義塾の経営者であるが、自分はそういう立場ではない。」と考えていました。
しかし諭吉の独立自尊の意味を知るにつれて、私は次のように思うようになりました。
自分の属する組織は「自分の組織だ」という意識が重要であると。
「自分の会社だ」「自分の部署だ」という思いになれば愛着が湧くし、自分のことのように思えるからです。
諭吉の後、慶応義塾の塾長を継いだ鎌田栄吉氏は「自分のごとく思えることが独立自尊である。独立自尊には会社や銀行や商店を自分のように思える強い思いがなければいけない。
上司の命令には従うけれども、その命令を自分のことのように思わなければいけない」と述べています。
独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。
人民の独立の気力あらざれば文明の形を作るも 啻(ただ)に無用の長物のみならず、 却(かえ)って民心を退縮せしむるの具となるべきなり。
独立の気力のなき者は必ず人に依頼す。
人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。
常に人を恐れ、へつらう者は次第にこれに慣れ、その面(つら)の皮鉄の如くなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。
いわゆる習い性となることはこの事にて、慣れたることは容易に改め難きものなり。
(福沢諭吉著 「学問のすゝめ」)