【2.十字軍の動機】[小学館;橋口倫介氏]

[メモ]
【十字軍の動機】
1.前史
 
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Map[1]:ビザンツ(東ローマ)帝国、アナトリア半島を支配
セルジューク朝建国直前。
 
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【セルジュークの5人のアスカリたち】
イスラムの世俗君主:スルタンの、配下の豪族の近衛兵。
日本風に言えば、「旗本」。
 
 10世紀末、トルコ系グズ族の族長セルジュークは、一族を率いてカスピ海から南下した。この部族はサーマン朝に仕えてイスラム教に改宗し、力を蓄えていった。
 1038年、孫のトゥグリル・ベク(Tughril Beg)は、ニシャープール(イラン東部のホラーサーン)に入城し、セルジューク朝を開く。
 1055年にはバグダードに入城し、アッバース朝のカリフ(法王)よりスルタン位(世俗王位)を受ける。
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「ルーム・セルジューク朝(ローマ方面のセルジューク朝:1077~1308)を拓く。
 
 11世紀後半には、シリア・パレスチナからエジプトのファーティマ朝の勢力を追い払い、また1071年、マラズギルトの戦い(Malazgirt)でビザンツを破り、ビザンツ皇帝ロマノス4世を捕虜とした。この事件が、十字軍の引き金となった。
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 東ローマ皇帝:ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となってセルジューク朝第2代スルタン:アルプ・アルスラーン(意:勇猛なるライオン)の前に引き出された。
 アルスラーンはロマノス帝を寛容に扱い、和平を約束したうえ、丁重に護衛の兵を付けて釈放した。
 2人が会見したときの有名な会話は記録として残されている。

アルスラーン「もし捕虜となったのが逆に私の方だったならば、貴方はどうするだろう?」
ロマノス「きっと貴方を処刑するか、コンスタンティノープルの街中で晒し者にするだろう。」
アルスラーン「私の下す刑はそれよりも重い。私は貴方を赦免して自由にするのだから。」
 
【十字軍の動機】
[小学館;橋口倫介氏]
2.地中海世界の状況
 
 十字軍遠征の発動は、多分に東欧のキリスト教ビザンティン帝国の内外情勢判断に対応しており、イスラム勢力の動静は間接的な動機をなすにすぎない
 
 11世紀中ごろセルジューク・トルコが東イスラム圏の実権を握り、エルサレムをはじめシリア、小アジアの要衝を相次いで占領し、1071年マラズギルトMalazgirt(現トルコ東部)でビザンティン軍を撃破したため、ビザンティン帝国は強い危機感を抱き、国土防衛と失地回復を目的とする戦略的親西欧政策を採用し、ナポリシチリアに進出していたノルマン人騎士や聖地巡礼途上の西欧諸侯に傭兵(ようへい)派遣を要請したり、1054年の東西教会分離以来疎遠になっていたローマ教皇庁との再接近を図るなど、西欧人の介入に道を開いた。
 
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皇帝アレクシオス1世
 
 皇帝アレクシオス1世は1095年春ピアチェンツァPiacenza教会会議に使節を送り、東方における「イスラム禍」を誇大に宣伝し、キリスト教信徒、教会、巡礼の被った被害を訴えた。
 
 これを受けて教皇ウルバヌス2世は、東西教会の再合同、東方における教会国家の創設、西欧諸国民の大量移民などを目的とする大規模な救援軍派遣計画を構想し、同年11月クレルモン公会議開催中に第1回十字軍発動の宣言を行った。
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 その趣旨は、全キリスト教徒の義務として聖墳墓に参詣する誓願をたて、イスラム占領下の聖都を奪回し、シリア、パレスチナの教会を解放するための軍事行動を勧説するところにあった。
 
 同教皇はまた、即位以来の懸案であるドイツ(神聖ローマ)皇帝との「聖職叙任権闘争」を教皇側に有利に解決する意欲と、西欧封建社会の積弊であった諸侯・騎士同士の私的闘争「神の平和」運動によって抑止する念願とを達成するため、十字軍運動の盛り上がりを巧みにとらえ、教皇代理ル・ピュイLe Puy司教アデマールAdhmarを総司令官とする軍団編成をフランス諸侯に呼びかけた。
[ 執筆者:橋口倫介 ]