【英国大使館に関する質問です】(Yahoo!知恵袋)

[Q]【英国大使館に関する質問です】(Yahoo!知恵袋)

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[Q]英国大使館に関する質問です。
英国大使館だけ何故皇居のすぐ傍に建っているのでしょうか?
 他各国の大使館も東京の中心地に建てられていますが、英国だけは群を抜いていると思います。
 何か歴史的な経緯や理由がありましたら詳しく教えて頂きたいです。
 場合によってはレポートの参考にもしたいと思っておりますので、参考文献・URL等ございましたら一緒に載せて頂けると助かります。
よろしくお願い致します。
 
閲覧数:33 回答数:1 お礼:100枚 

[A]ベストアンサーに選ばれた回答
 
amuhyogoさん
 .
2014/6/2400:58:34
.
『理由としては、
明治維新時点での各国の国力を見ると、大英帝国が世界中に植民地を持ち
圧倒的だった事。(当時の米国は南北戦争で混乱してる新興国。英国に次ぐのはフランス・ロシア・オーストリア

②幕末、品川御殿山に建設してた英国公使館が長州藩士に焼き討ちにあったりして
新政府も英国には負い目があったこと。

③当時の英国公使パークスが場所選定で積極的かつ強引だった事など。

*********************(詳細)*********************

◆幕末の1859年7月、オールコックにより高輪東禅寺に英国総領事館が開設された。オールコックの公使昇進により、領事館は公使館となった。しかし、2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷されたため、公使館は横浜に移った。その後江戸幕府により品川御殿山に公使館が建設されていたが、完成直前の1863年1月に高杉晋作らによる焼き討ちにあってしまい(英国公使館焼き討ち事件)使用されることはなかった。しかし、公使館が横浜にあることは不便であるため、当時の公使パークスは、1866年末(慶応2年)に公使館を横浜から江戸泉岳寺前に移転したが、これはあくまで仮のものであった。

明治維新後、多くの大名屋敷が空になった。1869年1月頃、パークスは公使館を三田上野沼田藩下屋敷跡に移した。さらに、パークスは恒久的な公使館用地を求めて、江戸城近くの複数の用地を物色した結果、1872年(明治5年)七日市藩上屋敷や旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた1万坪余りをほぼ永久的に貸与されることとなった。

◇ ◆ ◇

[質問した人からのコメント]
2014/6/28 21:24:51
 
ご回答ありがとうございます!
ご丁寧な説明でとても分かりやすかったです。
ありがとうございました。