【荻野吟子】【荻野久作】
【荻野吟子(おぎの ぎんこ)】
1851年(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬、2005年(平成17年)9月30日までは大里郡妻沼町大字俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける。
1870年(明治3年) - 夫からうつされた淋病がもとで離婚。上京し順天堂医院に入院し婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。
1874年(明治7年) - 甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる。
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【荻野久作(おぎのきゅうさく)】※荻野吟子とは同姓だが無関係。
荻野 久作(おぎの きゅうさく、1882年3月25日 - 1975年1月1日)は産婦人科医、医学博士である。女性の月経周期と妊娠との関連性を研究した先駆的業績で知られる。
生涯
以後生涯のほとんどを新潟にて送り、1951年(昭和26年)に新潟市名誉市民の称号を受ける[3]。
この論文は翌年、懸賞当選論文として採用されたが、反対意見も多かった[4]。
そこで1929年(昭和4年)6月、ドイツに渡った。
その後日本婦人科学会雑誌第19巻6号に掲載された。
なお学位は1923年東京帝国大学より「人類黄体の研究」[5]より得ている。
ところがオーストリア人のヘルマン・クナウス(Hermann Knaus)が久作の手法の目的を逆転させて避妊法として使うことを提唱する。
これは当時から避妊法としては他の手段と比べて非常に不確実な手法であることがわかっていたので久作は反対意見を表明する。
しかし不本意にもこの避妊法は後にオギノ式と呼ばれるようになる。
もっと確実な避妊法があるにもかかわらず自身の学説を安易な避妊法として使い、結果として望まない妊娠をして人工妊娠中絶により失われる命のあることに久作は憤りを感じていた。
そして、むしろ不妊治療に役立てて欲しいと主張した。
1975年(昭和50年)新潟市の自宅にて死去。最晩年まで医師として現役を貫いた。
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