【荻野吟子】【荻野久作】

【荻野吟子(おぎの ぎんこ)】

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荻野 吟子(おぎの ぎんこ(本名:荻野ぎん)、1851年4月4日(嘉永4年3月3日) - 1913年(大正2年)6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。

1851年(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬、2005年(平成17年)9月30日までは大里郡妻沼町大字俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける。

1867年(慶応3年) - 望まれて武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎と結婚。

1870年(明治3年) - 夫からうつされた淋病がもとで離婚。上京し順天堂医院に入院し婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。

1873年明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。頼圀より後妻に望まれる。

1874年(明治7年) - 甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる。


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荻野久作(おぎのきゅうさく)】※荻野吟子とは同姓だが無関係。

荻野 久作(おぎの きゅうさく、1882年3月25日 - 1975年1月1日)は産婦人科医、医学博士である。女性の月経周期と妊娠との関連性を研究した先駆的業績で知られる。

生涯

1953年、愛知県八名郡下川村(のち豊橋市下条(げじょう)東町)出身。父の姓は中村だが、1901年(明治34年)に荻野忍の養子となり、荻野姓となる。

旧制愛知第四中学校(のち時習館高校)、日本中学、一高などを経て1909年(明治42年)に東京帝国大学医学部を卒業。

しばらく同大病院で勤務した後1912年に新潟市の竹山病院産婦人科部長に就任するとともに新潟大学で研究を続ける。

以後生涯のほとんどを新潟にて送り、1951年(昭和26年)に新潟市名誉市民の称号を受ける[3]。

不妊や多産に苦しむ新潟の女性を目にし、当時解明されていなかった排卵時期の研究を行う。

3年の歳月をかけ1924年大正13年)、論文「排卵ノ時期、黄体ト子宮粘膜ノ周期的変化トノ関係、子宮粘膜ノ周期的変化ノ周期及ビ受胎胎日二就テ」を完成させ「日本婦人科学会雑誌」に発表した。

この論文は翌年、懸賞当選論文として採用されたが、反対意見も多かった[4]。

そこで1929年(昭和4年)6月、ドイツに渡った。

日本で行った論文発表の6年後の1930年(昭和5年)2月22日に現地の学会誌(ドイツの『婦人科中央雑誌』(1930年第22巻2号))に『排卵と受胎日』というタイトルで発表された。

その後日本婦人科学会雑誌第19巻6号に掲載された。

なお学位は1923年東京帝国大学より「人類黄体の研究」[5]より得ている。

ところがオーストリア人のヘルマン・クナウス(Hermann Knaus)が久作の手法の目的を逆転させて避妊法として使うことを提唱する。

これは当時から避妊法としては他の手段と比べて非常に不確実な手法であることがわかっていたので久作は反対意見を表明する。

しかし不本意にもこの避妊法は後にオギノ式と呼ばれるようになる。

もっと確実な避妊法があるにもかかわらず自身の学説を安易な避妊法として使い、結果として望まない妊娠をして人工妊娠中絶により失われる命のあることに久作は憤りを感じていた。

そして、むしろ不妊治療に役立てて欲しいと主張した。

1975年(昭和50年)新潟市の自宅にて死去。最晩年まで医師として現役を貫いた。

新潟市の自宅前の通りは、没後に新潟市民の運動により、その功績を讃えて「オギノ通り」と名づけられている。

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