【佐竹氏】(さたけうじ)

【佐竹氏】(さたけうじ)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

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イメージ 1 中世常陸(ひたち)の豪族。源義光(みなもとのよしみつ:新羅三郎(しんらさぶろう))常陸介(ひたちのすけ)となり、その孫昌義(まさよし)が母方に付して常陸久慈(くじ)郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)に土着し、佐竹氏を称したのに始まる。

 昌義の次子隆義(たかよし)は、平家の恩顧を受けた関係から源頼朝(よりとも)に対抗して勢力を削減されたが、鎌倉幕府滅亡後、貞義(さだよし)・義篤(よしあつ)父子が足利(あしかが)氏に属し、常陸守護職(しゅごしき)に補任(ぶにん)されて勢力を回復。

イメージ 2 15世紀初頭、上杉憲定(うえすぎのりさだ)の子義憲(よしのり)が義盛(よしもり)の養嗣子(ようしし)となったが、佐竹支族山入(やまいり)氏らの反対を受け、以来100年にわたる佐竹、山入両氏の抗争が続いた。

 1504年(永正1)義舜(よしきよ)が岩城(いわき)氏の協力を得て山入氏義(うじよし)を打倒し、本拠太田城常陸太田市)を奪還、常陸奥七郡統一の道を開き、義昭(よしあき)・義重(よししげ)父子の時代には大掾(だいじょう)・小田氏らを圧して常陸中南部陸奥(むつ)南部に勢力を拡大したが、北条・伊達(だて)氏の進出によって後退を余儀なくされた。

 義宣(よしのぶ)のとき豊臣秀吉(とよとみひでよし)から54万石余を安堵(あんど)され、水戸へ移る。しかし1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは石田三成(いしだみつなり)方につき、1602年出羽(でわ)に転封、秋田(久保田)藩20万石を領し、幕末に至る。[市村高男]

『江原忠昭著・刊『中世東国大名常陸国佐竹氏』(1970) ▽塙作楽編『常陸の歴史』(1977・講談社)』