「榎本武揚から世界史が見える」

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[人物カード]榎本武揚(えのもと たけあき)

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(1836生-1908没)

幕臣としてオランダ留学、のち海軍奉行。
戊辰戦争の際、五稜郭で官軍に反抗。

のち明治政府高官となり駐露公使、1875年、樺太・千島交換条約を締結。

藩閥政府のなかで、逓相・文相・外相・農商務相などを歴任した。

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[王者の器量]

場に出ている「榎本武揚」以外の
人物カードの人物力を(全て)+1000する。


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榎本武揚は、ただ単に旧幕府への忠義のために五稜郭で戦ったわけではない。

むしろ、彼の頭脳には、不凍港を求めて貪欲に南下するロシアとの国境を画定し、
有事への備えを行い、軍民の将来を考慮して北海道の農業を振興し、
ロシア・ドイツ他列強との外交を軍事・貿易など多面的に維持促進する、
という、充実した構想と、それを行う行動力・指導力があったのだ。

その国家運営方針は、陸奥宗光が成功に導いた日墨修好通商条約(1888)とも関連しつつ、
会津藩士・旧幕府艦隊員などを成員の多くに持つ「殖民協会」のメキシコ殖民、
コーヒー栽培・貿易準備にまで連続してゆく。

●しかし、榎本の構想は、日清戦争・三国干渉・閔妃暗殺・台湾領有という時代の中、
「遠い太平洋(南進)より、近い中国(北守南進)」という方向へと変化する世論の流れに
かき消されてゆくこととなる。

ロシア帝国との交渉から彼らの信頼を得、「脅威」よりはむしろ「和合」を考えていた榎本の方法論は、
ロシアへの大きな脅威感から「強兵」一辺倒で「富国・友好(有徳)」を置き去りにする世論に無視されるようになってゆくのである。

●1908年、日露戦争から第一次世界大戦へと、日本の国家運営方針が、「防衛」から「拡大」へと転換してゆこうとする時代、榎本武揚は73歳で没した。