【三閉伊一揆】在郷虎太郎さんのブログ『いわての風景散歩 』へのトラバ。

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【1853年(嘉永6年)黒船来航】

 

アメリカのペリー、
ロシアのプチャーチンなどが
開港を求め相次いで来日。

 

*ペリー
久里浜に上陸。

 

*プチャーチン
長崎来航。

 

※列強の度々の来航に対する
沿岸防備や、飢饉による財政難、
指導者の無策による乱費などにより、
幕府をはじめ、多くの藩が財政難に
喘いでいた。

 

 

1836年以来、三閉伊通り(野田・宮古・大槌などの各都市)で度々起こった一連の一揆

 

ラクスマン事件での松前警護以来財政難に苦しむ南部藩は、領民に度重
なる重税を課していた。

 

領民は何度も強訴を行ったがその度に藩から裏切られ、処刑者が出た。

 

最終手段として領民たちの採った策は「隣国仙台藩(伊達領)への越訴(おっそ)」。

 

事の成り行きを知る仙台藩は、南部藩との折衝の末、領民の47箇条にわたる願文の
ほとんどを受け入れさせ、一揆終結した。

 

※死を賭して訴えに出たということは、死ぬよりも辛い仕打ちを受けていた、ということだ。

 


 

以上は、月臣のHTML版「魔法戦艦リュケイオン」の
詳細研究「陸奥宗光とその時代」(製作中)』より転載。